・気は見えるのか
治療業界にいると度々会うことになるのが、「見える系」と言われる「私は気が見えます」という人でしょうか。他に表現するなら「感じる」というのがあると思います。では、治療家が全て見えたり感じたりするかと言えば、そうではないと思います。
気という言葉自体が、哲学的思想として分からない物を気と表現をしているので、分かる・感じる・見えるということは、この分からないことがないということになってしまうかと思うので私自身は不思議に感じてしまいます。
この業界にいると、いろいろな方にお会いすることが多いのですが、確かに本当に見えているのだろうなという方もいるのは事実ですし、治療家として役立てられている方もいますね。
私自身は完全に理解出来ているものではないので、見えないとしか言えないですが、将来は変わっているかもしれないですね。現段階では見える、見えないということで自分が理解していることをまとめてみたいと思います。
・気は見えない
気という話になれば、生命現象・萬物の本質ということになるので、そこから考えれば、何も分からないし、見えないということになるので、私自身はこの理由から見えないというスタンスを取っています。
もし、生命現象・萬物の本質が見えるのであれば、生命・萬物の過去・将来に渡って見えることになるでしょうし、見えるという方はここが見えているのかもしれないですし、もしこれを強調するのであれば、神の領域になるのではないかと思います。ただ、人間自体の能力が完全に分かっていないし、そういう方もいるのではないかとも思っています。
ただ表情や物事の動きを自然と洞察する力が強い人は、見えると言っていても経験や自分の感覚によって見分けている人もいるのではないかと思います。例えば、こういった分野であれば、ドラマなどで有名になっているプロファイルという分野が近いのではないかと思います。
・気は見える
気は生命現象・萬物の本質ということになるので、目の前に生きている人がいれば、もちろん見える訳だし、物は触ったりできるので、この見る・感じるという視点から言えば、気は見えるとも言えると思います。
一般の人でも目の前の人の体調が悪そうだとか、機嫌が悪そうという判断もするので、これからすれば、細かい気の動きも見えていると言えると思います。そういった細かい表情や顔色の変化を捉えるのが、医療に携わる人でもあるので、見えないといけないとも言えます。
・オーラのように見える
気が見えるということで、オーラのように見えるという話もありますが、本当に見えるというのもあるでしょうが、視覚の錯覚のような状態で見えるというのも考えられますね。あまりにこういった内容が多いと、懐疑的に見られる人もいるでしょうし、だからこそ楽しそうだという人もいるのでしょうね。
私自身は、オーラのように見えることの必要性を強く感じていないので、気にしていないのです。見えたからどうするか、どう利用するかという点は重要だと思うのですが、結局、自分の技術や知識がボトルネックとなってしまうので、あれば見える必要もないのかとも思っています。
・結果として見える
日々、身体の変化(血色、脈、筋の張り)を見ながら治療を行っていくと、自分では変化として見えているものが、他の人からは見えないというのは経験を積むと出てきます。
例えば、どんな仕事をしていても、失敗や成功を重ねた経験から、本能的に「ここが怪しい」と判断することもあると思いますが、初心者やその他の業界の方から取ってみれば、何故分かったのか不思議に感じることって多々ありますよね?
経験を積み重ねていくことによって、他の人では気づかないものに気づけるというのは、治療だけではなく、どの業界にも存在することなので、日々、治療に集中していくことが大切になると思います。
続けることがプロフェッショナルにもなるものですし、漫然と日々を過ごさないことが大切だなと思っています。私自身としては、気は見えなくてもいいですが、他の人では分からない変化を見えるようになっていきたいと思っています。これを見えると表現するのであれば見えるようになりたいということでしょうかね。
治療業界にいると、治療に関して話しをしていたのが、数年すると「見えるようになった」とか「気を感じる」と表現する人も多いのは事実ですが、真実かは分かりませんね。
見えると言う人は、手技療法・鍼灸には多いのですが、漢方の世界の方ではあまり聞かないですが、何故だかは分からないので考えてみますかね。