東洋医学の治療の中で、虚実の判定をすることにより、病の発生や状態を知ることができるのですが、治療においては補瀉を行うのに重要なものになります。補瀉という考え方は虚していれば補を行い、実していれば瀉を行うと習います。
補瀉は、治療の方法や技術ということで学校では習うのですが、知識や感覚としては理解できるのですが、鍼を使うことのよって、補瀉は本当にできるのかと疑問に思いました。虚実に関してはこちらのブログで細かく書いています。
古典に書かれているからそのまま従ってやるべきだといえば、その通りです。
従えない私は、素直じゃないなと思いましたが、こればっかりは疑問に思ってしまったら、落ち着かないですし、治療を考えたりすれば、補瀉のことも出てくるので、疑問を忘れ去ることもできずに、どうしたものかと悩みました。
確かに、鍼を刺したり刺されたりしているときに、刺した部位が重く感じたり、重かったのが軽減したりすると、虚していたのが充実するというのであれば補、実して重かったのが軽くなるというのであれば瀉と考えてもいいのかという感覚はあります。
鍼灸治療で補瀉を意識している方と、補瀉を意識していない方というのがいますが、意識をしていなくても鍼灸で症状が軽減したりするのであれば、補瀉は本当に必要なのかと考えることもあります。
補瀉があってもなくてもいいのであれば、その人の得意な患者さんしか残っていないのかもしれないとも思うし、真実は何だろうかとも思いました。
自分自身に鍼灸を行った経験では、補瀉を使っても使わなくても効果は大きくは変わらないときもあるので、必要性がわからないこともあるのですが、名人の補瀉であれば、劇的な違いがあるではないかという思いもあります。
補瀉を考えていなくても劇的な改善がみられることがあるので、その原因を考えたときに、もしかしたら補瀉を使っていたのではないかと考えて、手技や打ち方を考察してみるのですが、さっぱり分からないことも多いです。
それならば、補瀉は諦めればいいではないかというところなのですが、友人に治療をしていて、これが瀉法なのかもと実感したことがあります。
友人が左腰部からハムストにかけての痛みが強く出ていて、鍼でもやってくれということで、ハムストに鍼をしていたのですが、ハムストの硬結に鍼が当り、それが取れないかなと少しチクチクとしげきをして、鍼に食いつくような感じがあったので、そのまま抜鍼をしました。
「きたっ!!」
と言われたので驚いて、何が来たのだか意味不明だと思ったのですが、友人が言うには、抜鍼をしたときに、左腰部からハムストにかけて辛いと感じていたところに刺激が「きた」ということで、抜鍼をしてから痛みが全く無くなった経験があります。
阻滞していて気血の流れが滞っていたのであれば、瀉法を施したことになるし、経絡の阻滞を“取り除いた”という意味では瀉法をしたのかなと思いました。
こういった経験は毎回ではないですが、治療をしていくことによって、実感として補瀉が見に付くのではないかと最近は感じています。