生活をしているといろいろな経験をして、分かるようになってくることがありますが、その分かるようになったことは誰かに取っては分からないものになります。
例えば、最初に駅で切符を買おうと思ったときに、どこで購入するのかが分からないですが、券売機で行先の料金を見て決めるということが分かれば、次は迷わずに行えます。
誰にでも何かをする、何かを考えるときには、最初があるので、自分が分かるようになったことは、誰かの手助けになるとも言われるので、ブログを書いてみようと思ったきっかけです。
私自身が東洋医学で全てわかっている訳ではないですが、学校の授業で聞いたこと、教科書、書籍を読んでみて、自分なりに解釈をして、患者さんにも説明をしていて、話せるようになったというのは誰かにとってはできないことになると思います。
話す・話し方・文章に正解はないので、どのような話し方をするのかはその時の状況によっても変わるでしょうが、理解をするきっかけになれば十分ではないかと思います。
ネットを見てみても、説明で書いてあるものもありますが、多くは、教科書や書籍に書かれている内容をそのままになっているのがあり、それならば自分の言葉で説明するブログを書けば、自分にとっても知識の整理につながるのではないかと思いました。
8月から本格的に書き始めて、3か月目に入りましたが、やってみて思ったのは、自分の思っていた考えが矛盾をしているところもあり、文章に起こしてみることによって、そういう部分にも気づけるようになりました。
もちろん、新教科書を手に入れて、もう一度基礎から学習をしてみると、思ったよりも基礎的な用語を忘れているのに気づきました。国家試験に向けて勉強をして、卒業後も書籍を読んで学習していたつもりでしたが、「つもり」でしかなかったのかもしれないと思うようになりました。
自分が何を別っていて、何が分からないのかを知るというのは本当の意味での学習にもなるので、ブログの更新は自分の勉強になってきています。
『論語』の為政にある文章です。
「子曰、由、誨 女知之乎。知之為知之、不知為不知。是知也。」
簡単に訳してしまえば、「知るということは知っていることを知っているとして、知らないことは知らないとするのが“知る”だ」になります。
日常生活の中でもついつい知っていると思って話しをしていたら、質問や再考をしてみたら、知らなかったというのはよくあることですが、これに気づけるのが“知る”ということで、この積み重ねをすることが知識になります。
同じような内容は西洋哲学の中でも見られ、「ソクラテスの無知の知」と言われます。
ソクラテスは自分より知っている人がいるのかを確認するために、他の人と話しをして、自分は無知であることを知っているが、他人は無知であることを知らないとうことで、自分は「無知の知」があるから賢いと言ったということからきています。
賢くなるというのは、物事をしっかりと分類できることが大切で、情報整理が重要だと言えますが、“知”という情報を整理することが大切と言えます。
ブログを書くことで、東洋医学の情報を整理分類するのは、自分にとっての「無知の知」になると思って継続しています。人のためにもなりますが、結局は自分のためにブログを書いていると言えますね。
けど、自分のために好き勝手に書いていて役立つのであれば、それはそれでいいのではないかとも思います。