東洋医学が正しく理解できたと思う瞬間がある

Pocket

 東洋医学の勉強をしていると、目に見えないことが多いですし、現代医学の用語とも違いがあるので、頭に入りにくく、理解をしにくいことがあると思いますが、ふとしたときに、正しく理解できたと感じることがあると思います。

 正しく理解できたという状態は、正に腑に落ちると言う言葉がぴったりで、今まで学習した内容がしっかりと消化を出来たような感じになり、一気に理解することができます。

 

 東洋医学を勉強する始めは学校で習っていくと思いますが、学校の授業で聞いていても何となくわかったような気がするときもあれば、全くイメージが繋がらないこともあると思います。

 

 これは外部の勉強会に行ったときも同様で、何となくわかったような気がするときがあれば、全く響かないし、理解できないということがあると思います。

 

 これは多分、話す側の問題もあると言えるのですが、受け手側の問題もかなり強いのではないかと思います。例えば、生活習慣の中で、環境が変わると体調が変わりやすい人の場合は、環境と身体という視点から全てを説明されていけば、理解が進みやすいでしょうが、精神と身体についての要素が多い説明をされてら、自分の感覚と違うので全く理解が進まないでしょうし、そんなものなのかなという印象になってしまうと思います。

 

 話す側・聞く側の生活や体験のバックグラウンドが同じだと、説明も理解をしやすいので、自分に似たような人の説明を聞くのが理解をしやすいのではないかと思いますね。

 

 以前に、流派は自分がいて楽しいと感じるところの方がいいという話をしましたが、楽しいということは似ているということでもあるので、バックグランドや経験も似ているか、やってみたいことをやっていることで、同じような性質を持つので、楽しいを基準にすると理解が進みやすいことがありますね。

 

 私自身は、人の話を聞くこともあるのですが、このブログを書くようになってから、説明をするのには、ここが繋がっていなのではないか、この考えを覚えてはいたけど、繋がっていないのかと思うようになることが多くなったので、最近は、自分の頭の中でどういう状況なのかなと考え続けることが増えたと思います。

 

 人に説明をされて理解をするのも大切なのですが、自分が悩んで理解までたどり着いたことだと、悩み続けた結果があるので、いろいろな説明の仕方を出来るようになったのではないかと感じています。

 

 生みの苦しみと言いますが、悩んで悩んで理解をして生みだした知識は、読むだけ、聞くだけの知識よりは理解が深く、応用が効きやすいと思いますよ。

 

 もちろん、自分が理解したことが本当に正しいのかどうかは時間をかけてみないと分からないですし、私も数日~数か月経ってみてから、あの理解は違かったのではないかと思うことは度々あります。

 

 こうやって、悩んでたどり着いて、また悩んでたどり着いてを繰り返した先が、本当に正しく理解を出来たと腑に落ちる瞬間なのだろうと思います。

 

理解にたどり着くまでに大切になってくると感じたのは、今ある身体の感覚は東洋医学的に考えたらどういう状況なのだろうか、気血神経はどのような状況なのだろうか、臓腑だったらどのような状況なのだろうかという自分に対する問いかけなのかなと最近は思っています。

 

 よく、インプットだけではなく、アウトプットをすることが大切だと言われますが、アウトプットしたことに対して疑問を投げかけることが本当に理解をしやすいことだと思うので、指導や教育が一番、自分の勉強になるというのは真実なのだろうなと思いますね。

 

 例えば、陰陽について説明をしようとしたときに、明るいと暗いで分けるというのが基本ですが、例えばというように他の説明の仕方や生活の中の陰陽、身体の陰陽を話せるようになって初めて陰陽に対する理解が進んだと言えるので、質問をしてもらうというのは非常に大切でしょうね。

 

 臨床の中では患者さんとの対話なので、患者さんに取ってみれば何を言っているのかさっぱり分からない物なので、質問がくることも少ないですが、数少ない質問は自分の疑問として大切に取っておいて、どうやって説明するのが一番分かりやすいのかなと考えるようにしています。

Pocket