望診で大切になるのが神気を診るということなのですが、東洋医学を勉強し始めたときにはさっぱり分かりませんでした。
望診は神技とも呼ばれるもので、神がある状態(有神)は症状が軽く予後が言と言われ、神がなくなった状態(無神・失神)は意識がもうろうとしていて、病状が悪く、予後もよくないと考えられています。
病状が悪いところから急に元気になり、治るのではないかと思えるような一時的な回復を見せる状態は仮神(かしん)になり、危険な状態を示すサインになります。
通常の臨床であれば、無神・仮神の状態を見ることはないですが、良くなりそうと感じる、治療効果がよかったと思える状態でも神気があると言えます。
臨床に出始めてからは、治療して効果が出るのかなという疑問に思うことも多く、治療の効果もよかったのか悩むことが多かったのですが、最近は、あまり気にならなくなってきましたが、神気を見ているから安心できることがあるのではないかと思いました。
では神気とは何かと言われたら、雰囲気であり、顔色なのかなというのが私の結論です。それだと意味が分からないというのは当たり前ですし、私も分からなかった理由になるのですが、例えば、初めて会った人に対して、好きそうな人だ、苦手そうな人だというのを判断すると思いますが、これは神気を見ていると言えます。
具体的に言ったら、声が好き・嫌い、話し方が好き・嫌い、服装が好き・嫌いと出てくるのでしょうが、最初に思った感想は、何を見て決めたのか、非常にあやふやな物だと思いますが、神気も同じ部分があります。
意識がある・意識がないという、有神(得神)・無神(失神)は誰にでも分かると思いますが、神気がある人に対して、神気の強さの違いを認識しろと言っても、やはり難しいですね。
神気を具体的に言えば、顔色がいい、声の調子がいい、表情がいいというようなことが上げられるのですが、顔色の違いは臨床を始めて、理解できるようになりましたが、経験が少ない頃は、経験がある人が顔色の変化が見られたので、治療効果が出るはずという話しをしていても、何が違うのだかさっぱり分かりませんでした。
いつから神気を診るようになったのかは自分でも分かりませんが、治療の前後で何か変化が出ているところがないかを、いつも注意をしていたら、治療後の顔色の変化が分かるようになってきました。
そういう経験を積み重ねることによって、顔色が普通の人よりも何となく、奥まで黒くて悪そうだなというのを感じるようになり、治療後も奥の方の黒さが消えないなというのが理解できるようになったので、治療の前後を予測するようになりました。
顔色は顔の皮一枚の話なので、手前と奥があるというのも変な話になるのですが、神気を診ようとして、顔色を注視していると、何となく、手前と奥があるような気がしてきました。私に取っては有るという物でも、他の人に取っては無い物になってしまうので、こういった違いを理解するのが神気を理解することに繋がるのではないかと感じています。
神気は目に宿ると言う言葉もあるので、顔色を診るだけではなく、目の状態を診るのも神気を診ることには大切になっていきます。眼力(がんりき)という言葉があるように、眼を見て、元気そうだなという印象になったり、精神的に落ち込んでいるという印象になったりすると思うので、それも神気を診ていることになります。
眼力がある・ないを考えたときに、目の大きさに変化がある訳ではないですし、治療の前後、日々の変化では構造的に変化をするはずもないので、目だけで判断をしている眼力が分かるのであれば、それが神気という考え方になります。
そう考えると、治療者でなくても、神気は見ていることになるでしょうし、細かい観察眼を養うことが神気を診る力をつけていくことになります。細かい観察眼と言っても、特別なことは必要ないので、治療後に顔色・眼のツヤが変化をしたかを見続けていると、何となく分かるようになっていくものだと思いますよ。
私自身が神気を完璧に見える訳ではありませんが、初心者の頃には分からなかったことが分かるようになっているので、継続することは力になるのは事実です。まだまだ、見ることで分かることは少ないですが、何となく分かることも出てきたのは成長の証だと思います。