現実と夢の違いは何か?―胡蝶の夢とデカルト

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 今、ブログを読んでいるのは、現実なのでしょうか。実際は夢の中でブログを読んでいて、現実ではないかもしれません。または、日々の生活が全て夢で実際の現実は別にあるかもしれません。

 最初から意味が分かりにくい話ですが、どこかのSF小説や映画の中で出てきそうな話ですよね。こういった考え方は古代の人達もしていたようで、東洋哲学の文献の中では「胡蝶の夢」という話があります。

 

 「胡蝶の夢」は『荘子』に書かれている文章で荘周(そうしゅう)が夢の中で蝶になり、荘周であることを忘れ楽しんでいたが、目が覚めたら荘周だったという話で、荘周が夢の中で蝶になったのか、蝶の自分が荘周になっているか区別がつかないという話です。原文は以下の通りです。

 

昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。

自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。

不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。

周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。

 

 「胡蝶の夢」の意味は、現実と夢の区別がつかないことと言うことができますが、人の一生は実は夢かもしれないという視点からすると、はかないことという意味にもなります。人生を振り返ってみると長いようで短い時間で夢のようだとも言えるので、「胡蝶の夢の百年目」という言い方があります。

 

 通常は、起きているときが現実で、寝ているときに見ている物が夢になりますが、自分でも驚くぐらいの結果が出たとき、何かを成し遂げたときは夢のように感じるので、日々の生活はどこまで現実なのかが分からないと感じることがあるかもしれませんが、実際は夢かもしれないですよね。

 

 こうやって考えると、現実は夢のようだと言えますが、後悔しないように精一杯生きることが大切なのかもしれないですね。

 

 「胡蝶の夢」は哲学思想を含みますが、現実と夢とは何が違うのかという問いかけが哲学思想になっているのだと思います。ただの短い文章として、そういうこともあるなという気持ちで読めば、日常の一コマになりますが、現実と夢の違いは本当にあるのかを追及すると哲学になります。

 

 こういう考え方は人の根底にある疑問とも言えるので、東洋哲学だけではなく、西洋哲学の世界にも見られます。

 

 フランスの哲学者であるルネ・デカルト(1596~1650年)は、真実に近づいていくために、全てに対して懐疑的に見ていく視点があります。例えば、日々見ている景色は何かによって作られた物かもしれないし、他の人と同じ物を見ていたとしても同じものを見ていると証明できませんよね。

 

 例えば、色や形の定義自体が違うようであれば、見えている物自体の定義が違うので、同じ物を見ているといえなくなり、世の中に存在する物全てが、絶対的な物がなくなります。

 

 しかし、本当に物があるのかと考えている自分、自分の思いは絶対に存在していることになるので、「われ思う、故に我あり」という思想になります。

 

 胡蝶の夢も同じように考えていけば、荘周という存在が正しいのか、蝶という存在が正しいのかを決定することが出来ないですが、考えている自分は存在しているので、デカルト的な考え方とすることができます。

 

 胡蝶の夢については、さらに夢か現実かという定めがはっきりしていないですし、ある時は荘周で、ある時は蝶かもしれないと考えていくと、全ての存在は常に変化をしていると考えていくことができるので、東洋哲学・東洋医学で言われるような、「変化し流れているのが正常な状態」が根底にあるのかもしれないです。

 

 胡蝶の夢やデカルトの話を出しましたが、東洋哲学では変化していく、時間も自然も流れているのが正常と考えていくので、東洋医学では気血が全身を絶えず循環して生命が成り立っていると考え、気血は変化しあうと言えます。

 

 東洋医学を理解するためには、東洋哲学を理解していくことが大切だとされているので、古代の中国哲学の文献は、たまに読み返してみると新たに発見が生まれることがあります。

 

 哲学的な内容は、自分の知識や経験が入ってくると、以前読んだときとは違う考え方になるので、しばらくしたらもう一度読むのもいいと思いますよ。

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