恬淡虚無(てんたんきょむ)―養生思想

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 東洋医学の学習では恬淡虚無(恬憺虚無)という言葉が出てきて、重要な概念という話しになりますが、どういった意味になるのでしょうか。

 恬淡虚無は『素問』上古天真論に出てくる文章です。上古天真論は簡単に言ってしまえば、「昔の人が長生きできた理由」というのが書いてあるのですが、結論から言うと、「身体の状態を良く知っていて、養生をしたので長生きを出来た」ということですね。

 

 栄養、設備、医療が発達することで、現在の先進国が長生きの状態になっていて、古代は長生きでないのは当り前なのですが、古代のさらに古代の方が長生き出来たというのは矛盾していますね。

 

 古代の先は神が居た時代と考えれば、古代の人の方が長生きで健康だと考えることが出来るので、上古の時代は神の時代と考えていくことが出来ます。実際に中国古代の国を調べていくときに、伝説の神が生きていた国という表現があるので、神の国はどうやって成り立っていたのかという話しでもあります。

 

 古代は神の国であれば、人の国は必要なさそうな気がするのですが、こういったところを突っ込んでしまうとキリがないので、この辺にして恬淡虚無に戻ります。

 

 恬淡虚無が書かれている文章は、以下の通りです。

恬憺虚無、真気従之、精神内守、病安従来。

恬憺虚無なれば真気これに従い、精神を内に守れば、病、安くより来たらん。

 

 恬淡虚無という状態であれば、気の巡りがしっかりとし、精神を守れば病にならないという意味になります。恬淡虚無という言葉が分からないと意味が通じなくなりますね。恬淡は「欲がない、あっさりしている」という意味があり、虚無は「何もない、無現の宇宙、万物の根源は無」という意味が入ってくるので、恬淡虚無は「私欲がなく自然である」という意味に取っていいのかなと思います。

 

 恬淡という表現は、恬憺とも書かれていき、道家(どうか)で有名な荘子の書籍の中にも見られます。『荘子』の天道という部分に恬淡という表現が出てくるのですが、聖人とはどのようにあるべきなのかということについて書かれています。

 

 聖人は静であり、静かだが止まることがない状態と言われ、静かが良いから静かにしているのではなく、心が乱されることがない結果、静かであるという定義をしています。例えを出して説明をしている中に恬淡という表現が見られます。

 

『荘子』天道

虚静恬淡寂寞無為

きょせいてんたんじゃくまむい

 

 「虚静恬淡」は、心が静かでわだかまりがない、さっぱりしている、静かで落ち着いているという意味があり、「寂寞無為」は静かでひっそりとしている、安定している、自然のままという意味があるので、道家思想の無為自然の考え方と言えますね。

 

 「無為自然」は人間が生きる真理を考えたもので、他からの影響を受けずに、作為をせずにあるがままでいるという思想です。意味不明に感じますかね。自然を観察した結果として真理を考えたので、自然は自分から何かをしようとしているわけではないのに、存在があり、時間があり、変化があるので、人も同じように、何かに捉われることなく、天地自然に身を任せ、あるがままでありながら、存在し変化をするということになります。

 

 強引に短くしてしまえば、物事に動じずにあるがままでいるということでしょうかね。解釈に関しては、簡単なようで難しいところですね。

 

恬憺虚無、真気従之、精神内守、病安従来

 

 荘子の考えを加えて恬憺虚無の文章を再度見てみると、自然に身を任せながら、物事や環境に動じることがない状態になれば、自然の持っている本来の力を出せるようになるので、真気が身体に充実をしている状態であれば精神を内に守ることが出来るので、病になることがないという意味になっていくので、日々の生活の仕方についての考えになるので、養生の思想だと考えていくことが出来ます。

 

 ここからは自分の疑問になるので、誤りが含まれます。恬淡虚無という言葉ですが、「恬淡は虚に無く」という読み方に変えるとどうなのでしょうかね。

 

 精神内守というのは、精神というので心という意味なのか、精と神の2つに分けて考えた方がいいのかと悩んでしまいました。漢文を読む知識が少ないので、誤った読み方をしている可能性も高いので、しっかりと読んで理解しようと思ったら勉強が必要だと思います。

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