理気と行気

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 気滞や肝の失調では理気や行気という言葉が使われていますが、どういった違いがあるのでしょうか。少し気になったので、まとめてみます。

 理気という言葉が使われることは疏肝理気の中で使用されることが多く、行気が使われるのは行気活血の中で使用されることが多いですね。どちらの病態も気滞を含んでいるので、気滞に対しては理気や行気という言葉を使うことになります。

 

 気滞は肝の疏泄が失調した場合に発生していくので、理気や行気は肝の病態に対して使用する言葉ということもできますが、理気と行気という言葉はどこから持ってきたのでしょうか。

 

1.理気

 理気という用語はどこからきたのかを考えてみると、宋明理学(そうみんりがく)の中にあるようです。宋明理学は道学とも言われ、新儒学と呼ばれています。この考え方の中に理気があります。宋代は理気二元論、明代は気一元論に変わるのですが、東洋医学の用語にある、理気や一元論という単語がここに見られますね。

 

 理気は「理」と「気」に分けていくことができるのですが、何が違うのかを簡潔に言えば、「理」は物事が存在、制御する物であり、「気」は物であり、運動になります。人間で例えていくと、道徳や環境が「理」で、実際の行動が「気」になります。

 

 「理」と「気」はどちらか一方だけでは存在することができないですし、相互に影響し合っていることになります。「物体」とそれを存在させる「理由」というところでしょうか。もちろん、どちらも答えとしてはっきりとしている物ではないので、「理」と「気」という言葉を使っています。

 

 時代が進むことで、この「理気二元論」から「気一元論」に変化をしていくことになります。

 

 「理」は実体として存在している物ではなく、法則でしかなく、法則が「気」に働きかけるのであれば、全ての運動や原理は「気」によって成り立つと考えることができるので、全ては「気」であるという考えが「気一元論」になります。

 

 「気一元論」では、目に見えない力として存在する何かが結集したり離散したりすることによって、自然界の生成変化が生じているので、人間の思考や行動も自然界の気の影響に過ぎないとも言えます。

 

 どちらの意見が絶対的な正解という訳ではなく、物事の考え方の根底となる物なので、哲学的な思想の違いとも言えますね。

 

2.理気と東洋医学

 東洋医学は東洋哲学がベースになってくるので、「理気二元論」や「気一元論」の考え方は取り入れられていると思います。例えば、人間は自然の理(ことわり)の中で影響を受けて生きている、人間の道徳というルールの中で生きていると考えるのであれば「理気二元論」と考えていくことが出来ます。

 

 宇宙の成立、物事は全て「気」で、「気」の変化によって身体の状態が変わるのであれば、「気一元論」であると言えるので、東洋医学の考え方の中には、「理気二元論」「気一元論」はともに使用されているのではないかと考えられます。

 

 どちらかと言えば、「気一元論」の方が強いのかなという印象がありますが、絶対的な回答とは言えないので、どちらも使用されているのかなという印象ですね。

 

 東洋医学の中で「理気」という言葉を使用するのであれば、「気に対する治療」、「気を整える治療」という表現がいいのかなと思います。

 

3.理気と行気

 理気の成立から見ていくと、理気は行気と同じとして考えるよりも、理気という概念があり、その中の一つとして行気として考えていく方が正しいのではないかと思います。

 

 生命は気が巡ることで成立っているという概念から考えていくと、「行気」でもいい気がするのですが、「行気」だと巡らせることが目的になってしまっているので、調整という意味が薄れてしまうのかなと思います。

 

 そこで中医学では、気滞という気が停滞をしてしまっている病能に「行気」という言葉を当てはめているのではないでしょうか。

 

 「理気」に通じるような言葉としては、「利気」や「通気」がありますが、「利」と「通」は「行気」に近いのではないかと思います。「理気」は「行気」「補気」「降気」を含む広い意味として使えるのではないでしょうか。

 

 「疏肝理気」という言葉には「理気」が使われていますが、「疏肝」という言葉で肝の気を流すという意味が含まれてくるので、「疏肝」によって「理気」(気を整える)しているので、ここでの「理気」は「行気」ではないですね。

 

4.まとめ

 今回は「理気」と「行気」ということで中医学の中で用いられている用語にも違いがあるのではないかという視点で考えてみましたが、東洋医学をしっかりと理解していくためには、東洋哲学を理解していくことが大切なのではないかと改めて思うようになりました。

 

 東洋哲学は、哲学というだけあって、理解するのも読むのも大変なので、避けていたのですが、少しは勉強しないといけないというのがよく分かりました。

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