病の本質は虚なのか?実なのか?

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 東洋医学を学習していると、病がどのように発生したのかを考えていくことになりますが、病の本質は虚として考える方がいいのか、実として考える方がいいのか、どちらなのでしょうか。

 そう思ったきっかけは、鍼灸の治療法を見ていくと、日本の鍼灸だと虚として捉える方が多いような気がしていて、私自身もそう思っていた時期があったのですが、虚も実もあるし、虚実が混在している場合もあるのではないはないかと思うようになったからです。

 

 こういった議論は既に過去にも存在しているので、意味がないことなのかもしれませんが、自分の頭の整理を兼ねて文章化してみたいと思います。

 

 中国の金(1115~1234年)元(1271~1368年)時代では、病の本質は実であるという劉完素(1120~1200年)、張従正(1156~1228年)がいて、病の本質は虚であるという李東垣(1180~1251年)、朱丹渓(1281~1358年)がいます。

 

 日本だと、後藤艮山(1659~1733年)の一気留滞説(いっきりゅうたいせつ)という滞りが病の原因であるという実の考え方の人がいますね。この後藤艮山という先生は面白くて、温泉や熊の気も、とうがらしなどの民間薬を利用していたので、湯熊灸庵(ゆのくまきゅうあん)という別名があるのが面白いところですね。

 

 他には、吉益東洞(1702~1773年)の万病一毒説(まんびょういちどくせつ)という身体にある毒を取り除く考え方で治療をしていたので、日本だと、虚で治療をするという考え方は歴史的には出てこなかったのですかね。

 

 鍼灸で考えてみると、難経六十九難の学習のように、虚証として考えていくことが多く、実証は非常に少ないのではないでしょうか。

 

 漢方だと実だと考えて治療していたはずなのに、鍼灸になると虚だと考えて治療していくというのは面白い流れですが、漢方と鍼灸を行っていく人達が違うことから、こういった状況になっているのでしょうかね。

 

 確かに、人は生きていますが、段々と生命力が低下していくことで、病気になりやすくなり、亡くなっていくと考えると、身体はどんどんと低下=虚として考えることが出来るので、治療の本質としてはいい気がしますが、どうなのでしょうか。

 

 私自身は、資格を取得してからしばらくは、病の大本の原因は虚であるという前提で考えることが多かったのですが、病がどうやって起こるのか、どうやって治療していくのかを考えていったことで、虚もあるし、実もあるし、虚実のどちらも存在する場合があるので、個人の生活、体質、状態の確認が重要だし、治療の結果も見極めながら考えていかなければいけないのではないかと考えるようになりました。

 

 東洋医学では、気血が循環しているという考え方になりますが、例えるなら川の流れと同じではないでしょうか。

 

 虚であることが病の原因でという考え方ならば、川の流れで考えていくと、水の流れを強くしなければいけないですが、現実的には水を増やすことは難しいので、川にあるゴミを取り除き、水が流れやすくしていくことになります。

 

 実であることが病の原因であるという考え方ならば、ゴミを取り除かないことには川の流れはよくならないですよね。生体である水の流れを調節して押し流すのであれば、非常に強い力が必要ですし、大きな場合は、今度は洪水を起こすぐらいの力を加えないとゴミが取れないので、虚によって実が出ているとしても、実を取らないと、虚に対する治療によっては効果が出にくいのではないでしょうか。

 

 生体の持っている力は有限ですし、増やそうとしても、大きく増やすことはできないので、かなりの時間をかけて少しずつ削っていくのが適切な対処と言えるのではないでしょうか。

 

 もちろん、身体の中の話になるので、川にある大きな岩のような物がある訳ではないでしょうが、イメージとしては、実が酷い場合は、流すのも大変なのではないでしょうか。漢方であれば、その実に直接作用させるという考え方もあると思うのですが、鍼灸だと、その場所に直接というのは難しいので、やはり、病の病態を捉えて、実を取りながら、生体の流れを強めていくのがいいのではないでしょうか。

 

 自分で書いていても、まだまだ不完全なイメージになっているので、今後も治療しながら考察を続けていかなければいけないことだとは思いますが、生体の状態を考えていくためには、自然のことをイメージして考えていくのは重要なのかなと思いました。

 

 こういったところがあるので、古典では、天人合一思想というような考え方が提案されていたのかなと思いました。

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